大判例

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大阪高等裁判所 昭和61年(う)376号 判決 1987年1月27日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人植田弘蔵作成の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は、検察官八木廣二作成の答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。

論旨は、要するに、原判決は、洋出刃包丁を振り回して被告人に向かつてきたAに対し、被告人が丸椅子で同人の左側頭部を殴打した結果、同人を死亡させた旨の判示事実に関し、被告人の行為はAによつて加えられた急迫不正の侵害に対する防衛行為ではあるが、防衛行為としての相当性の範囲を超えたものであると認め、原審弁護人の正当防衛の主張を排斥し、過剰防衛にあたるものと認定しているけれども、被告人はAの包丁をたたき落そうとして丸椅子で払つたところ、誤つて同人の左側頭部辺りに丸椅子が当つたものであり、被告人の行為は正当防衛に該当するのであるから、原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認ないし法令の解釈適用の誤りがある、というのである。

そこで検討するのに、まず原判決の判示する(罪となるべき事実)及び(弁護人の主張に対する判断)を総合考察すると、原判決は、本件に至る経緯及び被告人の本件行為等として、次のとおりの事実を認定しているものと解される。

すなわち、被告人は、昭和五九年一二月三〇日午後一〇時ころ、久しぶりに訪ねてきた妻の弟Bを招待して妻C子とともに、行きつけの和歌山県御坊市薗×××番地所在小料理店(カウンター式)「甲山」に赴いたが、その直後に顔見知りのA(当時五五歳)が一人来店し、その後被告人が呼んだ知人のDも加わつて飲酒しはじめた。被告人は、当初Aに対し仕事の世話を頼むなどしていたが、同店に来る前既にかなり酒を飲んでいた同人の話が段々くどくなり、被告人の妻らに対し、その亡兄Eの悪口をくどくど言い出したので、けんかになることを恐れて一旦離れた席へ移つた。そうするうちに、被告人が「死んだ人の悪口を言うな。」とAをたしなめたのに対し、同人が「おれに説教するんか。」等と言つたため、被告人が「もう仕事を頼めへん。」と断わると、更にAが「人をアホにするんか。」と言つて食つてかかる態度を示したが、被告人は自分を押えて相手にならず、またDもAをなだめて同店から帰らせることができた。ところが、約二〇分後の同日午後一一時ころ、Aが洋出刃包丁(刃体の長さ約一六センチメートル)を携えて再び引き返し、「出て来い。」と言いながら、同店入口の引き違いガラス戸の西側(店内よりみて右側)を開けて店内に入ろうとしたため、同人が包丁を携えていることを知つたDらが、Aを押し出して右ガラス戸を閉め、全力をあげてこれを押えていたところ、同人は、反対側の東側(店内よりみて左側)のガラス戸を開けて店内に入ろうとした。そこでDらが更にこれを閉めて押え、一方Aが無理に開けようとするうちに、右ガラス戸が敷居からはずれて開いた状態となり、同人がそこからすぐ近くのカウンター席にいた被告人に対し、右手に持つた右包丁を突き出したので、被告人は、とつさに左手でその包丁を払いのけるとともに(その際、被告人は、左手親指に長さ一センチメートルの切創を負つた)、自分の座つていた丸椅子の四本脚のうち二本を両手に持ち、その座席部分をAの胸付近に押し当ててAを同店の玄関先(東西約二・三メートル、南北約二・九五メートルの狭い前庭で道路に面している。)に押し出したはずみに自らも店外に出、右前庭で被告人が道路側、Aが店側に位置するにいたつた。同所でも同人がなお何かわめきながら右包丁を左右や斜め上下に振り回して被告人に向かつてきたので、被告人は、前記丸椅子でこれを防ぎながら、とつさに、右包丁をAの手からたたき落そうと思うとともに、同人に対する腹立ちから、痛い目にあわせてやれば逃げ帰るだろうと考え、同人の侵害行為に対する防衛の意思と同人に対する憤激の情との併存した状態で、同人の左腕から左肩辺りを目がけて、右丸椅子の脚部を握つたまま右斜め上に振り上げ振りおろして殴りつけたところ、同人が体を動かしていたこともあつて、その座席部分が同人の左側頭部に当り、同人は、その場にうつ伏せに倒れたが、同人が起き上がりかけたので、更にその背部を右丸椅子で一回殴打した。その後被告人は、右店内に戻り、同店経営者のF子らに対し、「刃物を振り回してくるんで腹が立つて椅子で二回殴りつけてやつた。」「何しろ包丁を持つとるしなあ。」などと言つた。被告人から左側頭部を殴打されたことにより、Aは、頭部打撲傷を負い、昭和六〇年一月五日午後四時二五分ころ、同市薗一一六番地の二所在日高総合病院において、右傷害に基づく脳挫傷兼急性硬膜外血腫により死亡した。

右事実は、原判決挙示の各証拠によつてこれを肯認することができ、原審において取り調べたその余の証拠及び当審における事実取調の結果を加えて検討しても原判決の右事実認定に誤りがあるとは考えられない。

所論は、被告人は、司法警察員に対する昭和六〇年一月七日付供述調書において供述しているように、Aの持つている前記包丁をたたき落そうとして丸椅子で払つたところ、誤つて同人の左側頭部辺りに当つたというのが真実であるのに、原判決は、被告人が右包丁をたたき落そうとしたのか、Aの身体を殴打しようとしたのか、同人の身体のどの部位を殴打しようとしたのかの諸点について変遷を重ねて信用することのできない被告人の司法警察員及び検察官に対するその余の各供述調書の信用性を肯定し、これに引きずられて、(罪となるべき事実)では、前記丸椅子「の座席部分でAの左側頭部を殴打し」た旨、(弁護人の主張に対する判断)一では、「丸椅子でAの左腕から左肩辺りを目がけて殴りつけたが、Aが体を動かしていたこともあつて座席部分が同人の左側頭部に当」つた旨、(弁護人の主張に対する判断)二では、丸椅子で「Aの頭部に近い部分を殴ろうとして同人の左側頭部を殴りつけた」旨、三様のいずれも誤つた認定をしていると論難する。なるほど、原判決が右三様の認定をしているのは所論の指摘するとおりであるが、原判文全体を総合的に考察すれば、この点に関して原判決の認定した事実は、前に判示したとおり、右において最も正確に表現されており、右及びは、右と同一の事実をやや視点を変えて表現したものであつて(措辞やや適切を欠くのは否みがたいけれども)、原判決の認定事実にくいちがいがあるとは解せられないところ、右丸椅子は、鉄製の脚四本の上部に、厚さ約三・三センチメートル・直径約三〇センチメートルの木製円板ビニール張りの座席部分がしつらえられ、高さ約六〇センチメートルの背もたれのないもので、かなり重く、二本の脚を両手で握つた場合二つの握持箇所の間に相当の間隔があるため、これをもつて狙つた小さな目標をたたくのは非常に困難であり、しかもAは上記包丁を振り回していたのであつて、この包丁を右丸椅子で叩き落すのは至難のわざであること、現に被告人が振りおろした右丸椅子の座席部分は、Aの左側頭部に当つていること、被告人はAが倒れた後も、起き上りかけた同人の背部を狙つて右丸椅子で一回殴打している(これも手許が狂つて実際には主として地面をたたいただけで、同人にはほとんど打撃を与えていない。)こと等の諸事情に照らして、被告人の供述を検討すると、被告人がAの持つていた前記包丁をたたき落すだけの目的で包丁を狙つて丸椅子を振つたものであるとは考えられず、原判決が被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書を含む原判決挙示の関係証拠を総合し、前記のとおり、被告人は、Aの持つている包丁をたたき落そうとし、それができないまでも同人に強い打撃を加えて同人を逃走させようと考え、前記丸椅子をもつて同人の左腕から左肩辺りを狙つて殴りつけた旨認めた原判決の事実認定は正当であり、所論のいう事実認定の誤りはない(被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書中の供述に若干の変遷のあることは所論の指摘するとおりであるが、被告人の司法警察員に対する昭和六〇年一月七日付供述調書中の供述を除くその余の被告人の捜査段階における供述は、Aの持つていた包丁をたたき落す目的と同人の身体に強い打撃を加えて同人を逃走させる目的との併存を認めた点において一貫しており、この両目的の併存を認める供述は十分に信用するに足るということができる。)。

そして、原判決が認定し、当裁判所も肯定する上記事実によれば、被告人の右行為は、Aによつて被告人に加えられた急迫不正の侵害に対し自己の権利を防衛する意思をもつてなされた防衛行為であることが明らかである。そこで被告人の右行為が防衛行為としての相当性を有するか否かについて判断するに、Aによつて被告人に加えられた侵害行為は、容易に人を殺傷する凶器となり得る鋭利な洋出刃包丁を振り回して被告人に向つてくるという甚だ危険な行為である(被告人は、現にその直前同人から右包丁により軽傷とはいえ傷害を負わされている。)こと、これに対し被告人が同人の左腕から左肩の辺りを狙い、前記丸椅子で殴打した反撃行為は、原判決認定のとおり、右包丁をたたき落す目的と同人の身体に強度の打撃を加えて同人を逃走させる目的との両目的に出たものであつて、被告人は、自己の権利を防衛しようとする意思と同人に対する憤激の情とを併せ有していたものではあるけれども、右Aによる侵害行為の高度の危険性(現に右店内にいたDら数名の者は、右包丁によつて危害を加えられる危険をおそれ、誰一人店外に出て制止する者はいなかつた。)にかんがみると、被告人の右反撃行為は、丸椅子でAの持つている包丁をたたき落すなり、同人に強度の打撃を加え同人をひるませて逃走させるなりして、右包丁で切りつけられるという危険を免れようとする点に主目的があつたものと推認されること、右反撃行為により同人の左側頭部が丸椅子の座席部分で強打され、その結果同人が死亡するにいたつたが、これは被告人の全く予測しなかつた事態であること、たしかに被告人は、右第一撃によつて転倒したAに対し、更にその背部を狙つて丸椅子で殴打するという暴行を加えているけれども、当時なお同人は前記包丁を持ち起き上ろうとしていたのであつて、被告人の右殴打行為も防衛意思に出たことを否定しがたいばかりでなく(もつとも、この時点においては、その行為自体やその後の被告人の右店内における前記発言からみて、被告人は、同人に対する憤激の情をかなり募らせていたものと推認される。)、右殴打行為は、前記のとおり、Aの身体に対する有効な打撃となつておらず、もとより同人の死因とは無関係であることなどの諸事情に照らすと、被告人が前記丸椅子をもつて同人を二回にわたつて殴打した行為は、全体として、同人によつて加えられた急迫不正の侵害に対する防衛手段として相当性を有し、自己の権利を防衛する手段として必要最小限度のものということができる。

原判決は、Aが当時かなり酒に酔つていたうえ、被告人の方がAより若く体力もあつたこと、同人の包丁をたたき落すなどより軽い打撃によつて同人の攻撃を防ぐことが可能であつたこと等の事由をあげて、被告人の行為が防衛行為としての相当性の範囲を超えていると判示しており、また検察官は、答弁中において、前記「甲山」の前庭に出てから以後、前記丸椅子のような強力な武器を自由に振り回し得るようになつた被告人にとつて、前記のような刃物を持つたAはさほどの脅威とはなり得ないこと、被告人は右前庭において道路を背にして同店表出入口を背にしているAと相対していたのであるから、その気になれば後方の道路へ離脱することも十分可能であつたこと等の事由をあげて、被告人の行為が防衛行為としての相当性を欠くと主張している。しかしながら、Aが本件当日朝からかなりの量の飲酒をし本件当時かなり酒に酔つていたことは原判決認定のとおりであるが、同人は、右「甲山」へは自転車に乗つてきたうえ、被告人から殴打された後も自力で起き上がり歩いて御坊市薗△△△番地の○○の自宅に帰つており、同人の前記店内における飲酒量や言動、本件当時の行動に照らしても、同人がそれほど深酔していたとは認められず、また被告人がAより若く体力のあつたことも原判示のとおりであるが、身長約一六三センチメートル・体重約六六キログラムの被告人に対し、Aは、当時身長約一六九センチメートル・体重約五〇・五キログラムであり、糖尿病等の持病があるとはいえ、土木工事の責任者として働いていたものであつて、被告人との間に隔絶した体力差があつたとは認められず、更に右前庭に出て後、被告人が丸椅子を自由に振り回し得るようになつたとはいえ、右洋出刃包丁と丸椅子の凶器としての性状やAの行動に徴すると、右包丁を振り回して向かつてくる同人の行為の危険性が格別減少し被告人にとつてそれほどの脅威ではなくなつたとはとうてい認められない。また、不正の侵害に対する反撃である正当防衛の成立するためには、必ずしも他にとるべき方法のなかつたことを必要とするものでないところ、本件の場合、Aの包丁を直接たたき落すなどより軽い打撃によつて同人の攻撃を防ぐことが客観的に可能でなかつたとはいえないとしても、現実にそのような方法をとるにはかなりの困難と危険が伴うものと認められ、更に被告人はAがかなり酩酊していることを必ずしも十分に認識していなかつたうえ、前記のように双方に隔絶した体力差があるともいえないのであつて、このような状況下で、同人から人を殺傷するに十分な包丁を振り回して立ち向われ、身の危険を感じて応戦中の被告人に、前記店内に妻などを残したままその場から離脱するのを期待するのは非常に困難であるといわなければならない。そうしてみると、これら原判決及び検察官答弁の指摘する諸点も、被告人の行為の防衛行為としての相当性を否定するに足る事由とはなり得ないことが明らかである。

その他所論と答弁の指摘するところをつぶさに検討しても右判断を左右するに足るものはなく、したがつて、被告人の本件行為は正当防衛にあたるものと認められるところ、上記理由により正当防衛を認めなかつた原判決は、その認定にかかる上記事実に対する法的評価を誤つた結果、防衛行為としての相当性の存在を否定し、正当防衛に関する法令の解釈適用を誤つたものであつて、右誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかである。論旨は理由がある。

よつて、刑事訴訟法三九七条一項、三八〇条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により更に次のとおり判決する。

本件公訴事実は、「被告人は、昭和五九年一二月三〇日午後一一時ころ、和歌山県御坊市薗×××番地小料理店『甲山』ことF子方玄関先において、A(当時五五歳)から、所携の洋出刃包丁を振り回すなどしてけんかを挑発されたことに憤激し、同人対し、同店内にあつた丸椅子でその頭部を殴打し、その場にうつ伏せに転倒した同人に対し、更に丸椅子でその背部を殴打する等の暴行を加え、よつて同人に頭部打撲傷の傷害を負わせ、同六〇年一月五日午後四時二五分ころ、同市薗一一六番地の二、日高総合病院において、同人を右傷害に基づく硬膜外血腫兼脳腫腸により死亡するに至らせたものである。」というのであるところ、被告人がAの左腕から左肩辺りを狙い上記丸椅子を振りおろして同人の左側頭部を同椅子の座席部分で殴打し、更に転倒した同人の背部を目がけて右椅子で殴打した事実は、本件証拠によつてこれを認め得るけれども、右被告人の行為が正当防衛に該当し罪とならないことは前述のとおりであるから、刑事訴訟法三三六条前段により無罪の言渡しをする。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官石松竹雄 裁判官鈴木清子 裁判官田中明生)

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